映画「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」

劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデンを見てきた。

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もともと綺麗な絵柄で気になりつつも見たことがないアニメだったので、これを機にテレビシリーズを全話見た。

幼いながら戦争に赴き、感情というものがわからなかった少女が、自動手記人形として手紙の代筆を行ううちにだんだん人の感情に触れ、理解していくさまにいたく感動した。

特に10話の、病気の母親が自分の死期を悟り、まだ小さい娘に向けて毎年届くように50年分の誕生日祝いの手紙を書いたというエピソードには泣いた。

手紙の代筆を通じて依頼者の人生の一部に関わるということが、とても尊く素敵なことに感じられる作品だった。

 

劇場版は、テレビシリーズの数十年後、10話で登場した娘が亡くなり、母親から毎年受け取っていたたくさんの手紙を娘の孫が発見し、その手紙を代筆していたドール――ヴァイオレット・エヴァーガーデンの足跡を辿るところから始まる。

 

ヴァイオレットは何年もの時間をかけて、自動手記人形として確固たる地位を確立していた。そこに至るまでの努力はテレビシリーズでも丁寧に描かれていたところである。

病気の少年ユリスから依頼を受けた際に、彼の気持ちを正確に言い当てたところでも、ヴァイオレットの大きな成長を見て取ることができた。

作中で一番胸を打ったのが、エカルテ島にいるときにユリス危篤の報せが来て、ヴァイオレットがすぐにライデンに戻ろうとしたところだった。ヴァイオレット自身にとって大事な局面で、それを置いてでも約束を守ろうとするくらい、夢中で向き合えることを見つけたのだと思えたから。

 

一方で、ヴァイオレットがずっと慕っていたギルベルト少佐が実は生きていたという展開にはやや醒めてしまった。

ヴァイオレットは何年も少佐のことを想っているのに、少佐は何かと言い訳をしてヴァイオレットから逃げ隠れ続けていた。ヴァイオレットが訪ねてきてもなお向き合おうとしない。

テレビシリーズでもヴァイオレットと少佐のやり取りは描かれていたが、二人とも感情表現が少ないので、正直に言うとヴァイオレットがそこまで少佐を慕うのには共感できなかった。

少佐はヴァイオレットの記憶の中で美しい存在であり続けるか、手紙の場面を最後に訣別して生きていくという結末なら素直に受け入れることができたと思う。

どうも自分は、つらい過去を乗り越えて強く美しく成長したヴァイオレットには、少佐の思い出をも乗り越えて新しい未来を歩んでほしいと思っていたようである。

こればかりは解釈違いというものなのでどうしようもない。

 

さすがは京都アニメーションで、映像は本当に美しかった。

少しくすんでノスタルジックな色合いの画面の中で、スミレとブーゲンビリアの花の鮮やかな色がよく映えていた。

ヴァイオレットの表情の機微にも魅せられた。

 

パンフレットの中でユリス役の水橋かおりさんが「命が残した想いが作品という形で残っていくことの有り難さ」というコメントをされていたが、いろいろな意味でそのとおりだと思った。

ヴァイオレットの手紙が、何十年か経って依頼者の曾孫に読まれること。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンという作品がこの先も世に残ること。

京都アニメーションへの放火事件のことも忘れられない。

思いを伝えるということについて考えさせられる作品だった。